こんにちは、寝袋!です。
2015年12月、ある女性クライマーの死が報道されました。
その女性の名は「谷口けい」さん。
北海道の黒岳から、滑落してしまって命を落とされてしまいました。
登山関係者にとっては、よく耳にする有名人でしたが、世間的にはそれほど有名ではなかったと思います。
もっとも強いイメージは、
「平出和也のクライミングパートナー」
ではないでしょうか?
でも、私たちが知るその姿は、彼女のほんの僅かな一面にしか過ぎないのです。
谷口けいさんは、強い女性クライマーではありません。
強いクライマーです。
「太陽のかけら」という例え、まさにそのとおりの人物像をどうぞ。
目次
谷口けいさんの印象
私は、「日本を旅するアドベンチャーレーサーTさん」から聞いて、少しだけ経歴を知っていました。
といっても、
「谷口けいさんという先輩がいて、今は平出さんと山を登っている」
という程度でした。
目力
谷口けいさんを写真や映像で見ると、まず印象的なのが、彼女の強い目力です。
まっすぐこちらを見ているような、心の内面までのぞき込んでくるような、そんな目だと感じました。
平出さんと一緒にアタックして撤退したシスパーレでは、
「最後まで下山に反対した」
と言われています。
もし、私のような弱い人間だったら、この目力に負けていたと思います。
「どうして、こんな強い目をしているんだろう?」
と思っていましたが、それは、2019年に発行された本で知ることができました。
「太陽のかけら」の発行
「太陽のかけら~ピオレドールクライマー谷口けいの青春の輝き」は、クライマー仲間でもある大石明弘さんの著書です。
家族はもちろん、小学、中学、高校、大学の友人や、レース仲間、登山仲間たちに取材して書かれています。
クライミングのドキュメントではなく、谷口けいさんの人生観、生き様に焦点があたっています。
この本で、私たち直接知らない人間はもちろん、登山仲間でさえ知らなかったことが、世間に知られるようになりました。
私がぜんぶを伝えることは難しいですが、印象に残ったところを、簡単に書き出してみたいと思います。
自活して大学へ
彼女は、子供の頃から「大人に自由を束縛されている」と感じていたようです。
「生き方を決められたくない。自由に生きたい」
という思いは、思春期には誰でも感じているものだと思います。
しかし、彼女は徹底してそれを曲げなかったのでした。
高校を出てから家族の元を離れ(家出)、アルバイトで生計をたてつつ大学へ通いました。
そして、自転車で世界中を旅するようになったのでした。
「とても女子学生が住むようなところではない」
という部屋に住んで、自転車と勉強をやりながら、アルバイトで生活費どころか授業料まで稼いでいたのです。
女性だけのチームでアドベンチャーレース
アドベンチャーレースという、走り、カヌー、自転車をひっくるめたようなレースがあります。
それは4人1チームで行うのですが、必ず女性を1名入れなければなりません。
彼女は、荷物を減らされたりカバーされる立場というのが面白くなく、
「女性だけでやれば、みんなで平等に、困難を乗り越えることを楽しめる」
と、女性だけのチームを作ってレースに出ました。
麓から登るモンブラン
自転車、アドベンチャーレース、いろいろなものをこなしてきた彼女ですが、登山にも世界を広げていきました。
ヨーロッパのモンブランを登るとき、
「普通に登っても面白くない」
と、現在の登山基地ではなく、モンブランが初めて登られた当時のスタート地点から、何日もかけて登ることにしました。
結局、登頂はできなかったのですが、彼女にとっては、
「やりたいと思ったことを、やってみることが大切」
だったらしく、登頂などは二の次だったようです。
世間の評価などは無関係、あくまでも、
「自分と山だけの関係」
で物事を判断していたひとでした。
野口健さんとのエピソード
彼女は、登山家の野口健が行っていた、エベレスト清掃登山に参加していました。
野口健を叱る
かなりの有名人になっていた野口健に、
「あなた、最近のぼせ上がっているんじゃない? マスコミやスポンサーの言う事ばかり聞いているようじゃ、昔のあなたの良さは消えてしまう」
と痛烈なアドバイスを送っていました。
彼女は参加している身でありながら、その魅力で人の心を惹きつけていたようです。
「私は無酸素でエベレスト登りたい」
と、野口健を困らせました。
野口健にとっては、無酸素など危険を冒さず、全員無事に帰ることがスポンサーなどとの関係で重要でした。
すると、登山隊のメンバーたちが、
「けいさんが無酸素でやるなら、私達は全力でサポートする!」
と一致団結してしまい、野口健も思わず、
「もう、誰がリーダーだかわからなくなったな」
と笑ったそうです。
ペンバ・ドルジ
登山隊のシェルパ(ネペールの山岳民族で、登山のサポートが得意)に、ペンバ・ドルジという若者がいました。
仕事でしかたなく山に来る人が多いなか、彼はエベレストの頂上に登りたいという夢をもっていました。
彼女はすっかりその人間性?に惚れてしまい、
「日本に連れて帰って結婚する」
と言い出したそうです。
(結局断念したのですが、彼には奥さんも子供もいるのを知った上で。すごい・・・)
「やりたいことは、やってみなければわからない」
という姿勢は、こういうところにも貫かれていたようです。
野口健さん、じつは昔同じようにシェルパの女性と結婚し、日本と遠距離結婚生活していたそうです。
結局お別れになってしまったそうですが、その経験をもとに、猛烈に説得したそうです。
平出和也さんとのエピソード
谷口けいさんは、平出和也とシスパーレという山へチャレンジしていました。
谷口けいさんの死後、平出さんは中島健郎をパートナーにしてシスパーレを登頂します。
その映像の中で、平出さんは、
「けいさんがいなくなってから、山が怖くて怖くて、どうしようもない」
と語っていました。私は、
「身近な仲間を失って、山が怖く感じるようになったのだろう」
と思っていましたが、この本を読んで「違うかもしれない」と気づきました。
平出さんは、毎回のように山が怖かったらしいです。
出発前にはいつも「引き返す理由」を考えてしまうような、弱さを持っていたらしいのです。
しかし、彼女が、
「大丈夫、いけるよ!」
と持ち前のパワフルさで引っ張り、2人で数々のクライミングをこなしてきたそうです。
「技術ではない、生物としての強さ」
が彼女はもっていて、
「彼女となら、死なずに登れるかもしないと思った(勇気づけられた)」
と、他のクライマーも話しています。
もちろん技術的にも優れたクライマーだったようですが、何より、人の心を奮い立たせる人だったんだなと感じました。
谷口けいさん、間違いだらけの恋愛憶測
この本には、彼女の恋愛関係についても書かれています。
登山パートナー≠パートナー
登山を知らない人は、
「登山パートナー=人生のパートナー」
と考えがちです。
命を預け合うし、ずっと一緒にいるし、テントで一緒に過ごすし、そう思っても仕方がない面はあります。
しかし、まったく違うのです。
あくまでも、彼らは登山のパートナーです。
谷口けいさんも、たとえば平出和也と毎回登っていたわけでもなく、毎回毎回違うクライマーと山へ向かっていたのです。
(平出和也さんは既婚者ですし、お子様もいます)
和田淳二さん
ごく身近な人しか知らないことのようですが、この本では、彼女の人生のパートナーについて書かれています。
同じクライマーの和田淳二さんという人が、その人だと書かれています。
いくつかのエピソードで書かれていますが、彼女の恋への真っ直ぐっぷりも、やはりすごいです。
これはぜひ読んでください。
あと、ちょっと邪推ですが、
「彼女を女性として好きだった人は、たくさんいる」
と思われます。
じつは、この本を読んで初めて、自分の失恋を知る人も多いのでは?
植村直己冒険賞の辞退
彼女は、冒険家、植村直己さんをとても尊敬していたそうです。
そして、2014年に、彼女は植村直己冒険賞を受賞することになりました。
冒険家・植村直己の人物の功績を継承するために設けられた賞である。自然を相手に創造的な勇気ある行動をした人または団体に贈呈される。
しかし、彼女は辞退してしまいます。
「私はまだやりたいこと、計画を達成していない。今の段階でいただくわけにはいかない」
との考えだそうです。
2014年は、受賞者が空白になっています。
「山を登る旅人」
彼女はなにをするにでも、人との関係を大切にする人でした。
「ただ山を登頂する、レースを完走する」
だけが目的ではなく、
「それらを自分らしく行い、人と出会い、世界を知り、楽しむこと」
が一番の目的だったと言っています。
モンブランに麓から挑んで登頂できなかったのも、いい一つの例です。
モンブランの歴史を味わいながら、モンブランのある土地と触れ合いながら山へ向かったのです。
彼女は自分のことを、
『山を登る旅人』
と言っています。
あくまでも、旅をしているんだと。
この本の最後には、黒岳の頂上から滑落した前後の状況が詳しく書かれています。
この本を通じて彼女を知っていくに連れ、
「そっちへいくな!」
と叫びたくなるような、そんな思いになりました。
まだ間に合うような、生きているような、そんな気持ちになりました。
彼女は本当に死んでしまったのでしょうか?
この本の題名「太陽のかけら」ほんとうに彼女を表している、いい言葉だと思いました。
彼女自身が光を放つだけじゃなく、どれだけ周りの人間を明るく照らしてきたか・・・。
山とは関係なく、生き方に悩む若者にオススメしたい本でもあります。