【孤高の人・単独行】登山家加藤文太郎を知ろう【北鎌尾根遭難】




こんにちは、寝袋!です。

登山者に、

「尊敬する登山家は誰ですか?」

と質問すると、加藤文太郎の名前を挙げる人が多いです。

現代には数多くの登山家がいて、経歴や実績だけならば、加藤文太郎を超える人は大勢います。

それなのに、なぜ、加藤文太郎はいまだに尊敬を集め続けるのでしょうか?

とくに、単独行をする登山者は、「尊敬を超えて崇拝」ともいえる思いで名前を口にします。

加藤文太郎の登山とは?

どんな人物だったのか?

性格や登山スタイルはもちろん、最後に遭難死した北鎌尾根のこと、史実と小説の違いなどをくわしく解説します。

彼の魂は、今もすべての単独行者のなかで生きているのです。

加藤文太郎とは?

1905(明治38)年、3月11日兵庫県浜坂生まれ。

「不世出の登山家」と呼ばれ、北アルプスの冬期登山を中心に活躍した登山家です。

30歳のときに、槍ヶ岳北鎌尾根で遭難死したときは、

『国宝的山の猛者 槍ヶ岳で遭難』

と報道されました。

後述しますが、当時の登山の常識を打ち破り、単独行で山を歩いたことから、

『単独行の加藤、地下足袋の加藤』

と呼ばれ、一目置かれる存在でした。

新田次郎の小説『孤高の人』では、実名で描かれています。

細部は違うものの、加藤文太郎のことを知るなら、最も手っ取り早い方法です。

また、著書『単独行』は、時代を超えた今でも、登山者の心に語りかける名著です。

加藤文太郎の登山のすごさ

加藤文太郎のことを知るには、当時の時代背景も多少勉強する必要があります。

団体が当たり前の時代に単独行で登山する

当時の登山は、登山ガイド(猟師などの山案内人)を雇って行う、高級なスポーツでした。

裕福な人たちだけがグループを作って、山に入っていた時代だったのです。

そんななか、加藤文太郎は案内人も雇わず、たった1人で登山しました。

現代での単独行は、「団体じゃなくて1人」という人数のことだけをあらわします。

しかし、当時の単独行は、異端とも言える非常識なものでした。

山案内人からは、

「案内も雇わず勝手に山に入りやがって」

と軽蔑の対象にされましたし、他の登山家からは、

「金もなく仲間もいない愚か者」

とバカにされました。

それでも、そのスタイルを押し通したのには、後述する著書『単独行』の序文にかかれている通り、

単独行のほうが安全で優れている登山である

という信念があったからでした。

限られた休暇を利用する⇒冬山専門

加藤文太郎は、三菱内燃機製作所で働く、一般庶民のサラリーマンでした。

限られた有給休暇を利用して、山へ向かわなければいけませんでした。

そのあたりも、富裕層の登山家たちとは大きく違う点でした。

加藤文太郎は、初期の頃こそ夏山も登りましたが、やがて、

「山の素晴らしさは冬山にある」

と自分のフィールドを制限しました。

夏は休みを使わず仕事に専念し、すべての休みを正月休みに投入して、冬期の縦走を成し遂げたのです。

「山へ行きたいけど、時間がないんだよねえ」

と言う現代人の言葉、加藤文太郎に聞かれたら笑われますね。

超快速の足

加藤文太郎は韋駄天で知られていました。

彼の登山の初期、住んでいた須磨から宝塚まで六甲山を縦走し、また歩いて須磨に帰っています。

早朝から夜までで、100kmに及ぶ距離を歩いたといいますから、驚きです。

現代ではトレランレベルと言っていいでしょう。

また、加藤文太郎は、冬期のビバークはしましたが、テントは持たない登山家でした。

山小屋から山小屋へ移動するには、人並み外れたスピードで歩かなければ到達できないために、当時は他の誰も出来ないことだったのです。

加藤文太郎は、驚くべき健脚でしたから、山小屋間の距離をつないで計画することが出来ました。

結果、全人未踏の縦走記録が達成されたのです。

満腹ならば雪の中で寝ても死なない

彼は何度か冬山で、着の身着のままビバークしたことがあります。

その経験から、彼は、

「温かいものでお腹を満たして、雪穴に潜り込めば、眠っても必ず目覚める」

ということに気づいたといいます。

当時の常識では、冬山で眠ったら危険という考えでしたが、彼は自分の経験と研究によって、常識を打ち破っていったのでした。

独自の行動食

加藤文太郎は、現在の行動食のような考えを導入していました。

腰を据えて食事をとるのではなく、歩きながら、上着のポケットに入れた「小魚と甘納豆」を常に食べていました。

これも、彼の登山から停滞時間をなくし、快速を生み出した1つの要因かもしれません。

他にも、揚げた餅や煎餅なども利用したと言われています。

また、専用の高価な登山道具を持てなかった彼は、一般的な衣服に独自の改良を加えて使っていました。

彼は体力だけではなく、アイデアも優れていたのです。

小説と史実の違い

新田次郎の小説『孤高の人』があまりにも有名で、しかも、とてもよく加藤文太郎のことを現しています。

そのため、史実と小説との違いがあやふやになって、史実と違っている点がいくつかあります。

加藤文太郎を語る上で外せないのが、槍ヶ岳北鎌尾根の遭難死にまつわることでしょう。

あまりに壮絶で、ドラマティックに描かれたために、相違点が多いところでもあります。

簡単に表にまとめてみました。

小説 史実
パートナー 宮村健(足をひっぱる) 吉田冨久(実力、信頼)
単独? 生涯最初で最後の非単独行 何度もパーティー経験あり
北鎌尾根山行 宮村に誘われて仕方がなく 自分が吉田氏を誘った

じつは単独だけじゃなかった

小説では、後輩の宮村に半ば強引に誘われて、彼が心配で付いていくことになります。

そして、単独行を貫いてきた彼が、

「最初で最後、唯一のパーティーで挑んだ登山」

として描かれています。

単独行者の彼の個性を際立たせ、

「初めて主義を曲げて挑んだ結果、パートナーに足を引っ張られて遭難した悲劇」

と表現されているのです。

しかし実際は、彼は何度かパーティーで登山をしていますし、パートナーの吉田氏には絶対の信頼をおいていました。

パートナー吉田富久氏について

むしろ、岩や氷の登攀においては、吉田氏に頼ることが多かったようです。

北鎌尾根の前に行った前穂高岳北尾根山行では、

「私が岩壁登攀に手間取ったために、吉田氏に凍傷を追わせてしまった。申し訳ない」

と語っています。

北鎌尾根でも、吉田氏の登攀能力を頼りにして、同行をお願いしたというのが真実のようです。

小説とはいいながら、加藤文太郎のパートナーというだけで、ダメ登山家に勘違いされている吉田氏は、なんだかかわいそうです。

槍ヶ岳北鎌尾根での遭難死について

加藤文太郎は、吹雪の中槍ヶ岳から北鎌尾根の踏破にチャレンジして、遭難してしまいました。

槍ヶ岳の尾根

槍ヶ岳のとんがった山頂は、登山者以外にも有名です。

槍ヶ岳からは、東西南北に4本の尾根が伸びていて、東鎌尾根、西鎌尾根、北鎌尾根などと名前が付いています。

なぜか南だけは、南鎌尾根とは呼ばれません。

北鎌尾根は他に比べるとレベルが違う難しさで、とくに冬期は難易度が高いルートです。

慎重な彼が、なぜこのときに限って、吹雪の中強行してしまったのかは謎で、くわしくわかってはいません。

しかし結果として、北鎌尾根を少し進んだところで滑落して、天上沢に落ちてしまいます。

地図に周辺の情報をまとめてみましたので見てください。

彼らは北鎌尾根から滑落後、元の場所に戻ることは出来ず、吹雪の中なんとか北上します。

脱出ルートの先には、小屋があり、そこまで行けば生還できる見込みでした。

しかし残念ながら、まず吉田氏が力尽きてしまいます。

加藤文太郎はそこに目印として自分のピッケルを刺し、1人で北上を続けます。

しかし、ほんの200mほど進んだだけで力尽き、死亡してしまったのです。

遺体発見
捜索は困難を極め、遺体が発見されたのは、春になってからでした。

吉田氏の遺体のそばには加藤のピッケルがあり、加藤はその先で遺体となって発見されたのでした。

小説では、足手まといのパートナーを最後まで見捨てずに看取り、死亡した後に1人で脱出を試みて叶わずという表現になっています。

真実はわかりません。

ただ、2人が一緒に助かろうと、最後まで力を合わせたことは間違いがないと思います。

参考までに
上の地図の赤い線は、私が歩いたGPSの軌跡です。

夏場に北鎌尾根を歩いたことがありますが、私などが到底冬場に近づく気も起きないような、危険な場所でした。

装備が優れている現代でも、です。

考察「もし加藤文太郎が違う時代に生まれていたら」

加藤文太郎が生きた時代には、軽量な装備、ゴアテックスなどがありません。

もし、彼が現代に生まれたとしたら、それらの装備に身を包んで、もっと速く軽快に山を歩いていたことでしょう。

当然、海外の山々にも挑んだでしょう。

彼は岩や氷の登攀は苦手だったといいますから、アルパインクライミングの世界に入っていったのかどうかはわかりません。

ただ、彼の強い信念と体力、工夫する能力で、私達が考えないような登山をしていたのではないかと、個人的には思っています。

現代に生きる加藤文太郎

現在になっても、加藤文太郎の名前は残っています。

加藤文太郎記念図書館

兵庫県には『加藤文太郎記念図書館』があり、彼の写真や使用した道具などが展示されています。

訪れてみて、肌で感じてみるのもいいでしょう。

兵庫県北部というのは、加藤文太郎の他に、あの冒険家植村直己の出身地です。

登山家を生み出す何かがある、そういった地域性なのでしょうか?

拝啓 加藤文太郎 兵庫縦断176kスピードハイク

加藤文太郎が、結婚式のために兵庫県の山々を縦断して帰省した史実をもとに、登山イベントが行われています。

加藤文太郎は、勤務先の神戸から、実家のある浜坂まで山々を縦断し、遭難しそうになりながら結婚式に参加しました。

小説では、もう少しで新郎のいない結婚式になったであろう様子が、語られています。

ちょっと、山キチガイにも程があるエピソードです。

まあ、それはともかく、それと同じようなコースをイベントにしているのですから面白いですね。

個人的に、「拝啓 加藤文太郎」という名前が素敵だなと思います。

48時間かけて、176kmを踏破するようですよ。

公式フェイスブックページ

『単独行』の序文だけは読んで欲しい

加藤文太郎のおおまかな人生は、新田次郎の『孤高の人』や、谷甲州の『単独行者』を読むとわかりやすいです。

しかし、彼が残した著書『単独行』に書かれている生の言葉は、なによりも素晴らしいです。

まずは、『序文』と名付けられた数ページ、それを読むだけでも価値がある本です。

とくに、事故があるたびに、何も知らないマスコミなどから叩かれる、単独行をする人には、ぜひ読んでいただきたい文章です。

ごく一部を紹介させてください。

単独行より抜粋

『単独行者よ、見解の相違せる人のいうことを気にかけるな。

もしそれらが気にかかるなら単独行をやめよ。何故なら君はすでに単独行を横目で見るようになっているから。

悪いと思いながら実行しているとすれば犯罪であり、良心の呵責を受けるだろうし、山も単独行も酒や煙草になっているから。

良いと思ってやってこそ危険もなく、心配もなくますます進歩があるのだ。

弱い者は虐待され、ほろぼされて行くであろう。強い者はますます強くなり、ますます栄えるであろう。

単独行者よ強くなれ!』

彼は、著書を通して、

飛躍することなく慎重に行われる単独行のほうが、より安全で正しい登山だ

と主張しているのです。

私も全く同感ですが、

彼の時代にこれを叫ぶことは、さぞ大変だっただろう・・・

と、心が痛みます。

加藤文太郎がずっと愛される理由

誤解を恐れずに言えば、加藤文太郎は過去の人です。

彼が成し遂げた登山より、より困難で難しい登山が、数多く達成されているのは間違いありません。

でも、それで加藤文太郎の人生が、かすれて、薄れてしまうことはありません。

彼は、団体が当たり前の時代に、単独行を実行しました。

1人で山を登るなんてことを、誰も考えなかった時代にです。

行動食で歩き続けるスタイル、雪山でビバークするスタイルを編み出して、不可能と思われることを可能にしました。

世の中の常識を打ち破る、フロンティアラーだったのです。

例えて言うならば、メジャーリーグに行くなんて誰も考えない、そういうルールすらない時代に、メジャーへ移籍して行った野茂英雄のようなものでしょうか。

その後、彼以上の実績を残した(?)イチローが現れても、永遠に野茂英雄の功績は消えないでしょう。

加藤文太郎を尊敬し、崇拝する登山者は、むしろ増えていくのではないかと思います。

なぜなら、彼の言葉や考えは、単独行者に誇りを抱かせるからです。

単独行者は、彼の言葉が真実であることを証明するために、決して遭難事故を起こさないようにする義務があります。

「山を団体で登るなんて、なんて危ない奴らだ」

そう言われる時代が、いつか来てほしいと思います。

ね、文太郎さん!

孤高の人

新田次郎さんの小説です。

加藤文太郎のことをまず知るなら、この小説がいいでしょう。

単独行

加藤文太郎本人の著書です。

彼の想い、考えを知るなら、この本を読まずしては考えられません。

とくに、単独行をする人は、絶対に読むべし。

単独行者

谷甲州の小説です。

より本来の加藤文太郎に近い形で書かれた小説です。






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