こんにちは、寝袋!です。
日本人初の8,000m峰14座登頂
という肩書を持つ登山家、
竹内洋岳(たけうちひろたか)
について紹介します。
8,000m峰14座って、どのくらいすごいのか?
竹内洋岳って、どんな人柄なんだろう?
彼は、雪崩や高度障害で、2度も生死の境をさまよって助かった、珍しい経験もされています。
写真とエピソードを交えながら、彼のひととなりに迫ってみたいと思います。
目次
日本人初の8,000m14座登頂
竹内洋岳は、
日本人で初めての8,000m峰14座登頂
を、成し遂げています。
かつて、日本人最強の登山家と言われた故・山田昇も、14座中9座を登頂するにとどまっています。(デナリで遭難死)
1995年のマカルー登頂から始まり、2012年のダウラギリ登頂で達成しました。
8,000m峰14座とは?
そもそも、8,000m峰14座とはなんでしょうか?
地球には、標高8,000mを越える山が、14座あります。
その全てを登るのが、8,000m峰14座登頂というわけです。
世界7大陸最高峰登頂(地球の7つの大陸それぞれの、最高峰を登ること)と同じように、登山家の1つの目標になっています。
「14座なんて、今さらなんですよ」
竹内さん本人が、話しています。
『14座なんて、世界的に見れば「今さら」なんですよ。たくさんの人が達成していますから。
でも、それをいまだに、日本人がやっていないというのが、悔しいんです』
一応補足しておきますと、
「日本人登山家が挑んでいるのに、達成できていない」という意味では、ありません。
おそらく、やろうと思えば、達成出来る人は大勢いたでしょうし、現在もいるでしょう。
ですが、竹内さんは、それを悔しいと感じたし、自分の目標に設定したということです。
例えば山野井泰史であれば、
「日本人がやってないって言われても、べつにいいんじゃない? 出来ないわけじゃないんだし」
と、笑って聞き流すのではないでしょうか。
でも、やろうとして出来なかった人もいるわけで、これはこれで、素晴らしい目標ではあると思います。
竹内洋岳の14座登頂の歴史
年 | 写真 | 標高 | 備考 |
1995 | マカルー | 8,463m。日本山岳会による団体登山。無酸素ではない。 | |
1996 | エベレスト | 8,848m。立正大学山岳部登山隊。無酸素ではない。 | |
K2 | 8,611m。日本山岳会青年部登山隊。無酸素ではない。 | ||
2001 | ナンガパルバット | 8,125m。国際公募登山隊。無酸素。 | |
2004 | アンナプルナ | 8,091m。北面から無酸素アルパインスタイル。 | |
ガッシャブルムⅠ | 8,080m。無酸素。国際公募隊 | ||
2005 | シシャパンマ | 8,027m。無酸素アルパインスタイル。 | |
エベレスト無酸素登頂を目指すが、7,700m付近で意識不明 | |||
2006 | カンチェンジュンガ | 8,586m。無酸素。メンバーは4名。 | |
2007 | マナスル | 8,163m。無酸素。国際公募隊 | |
ガッシャブルムⅡ登頂の途中、雪崩に巻き込まれて重傷 | |||
2008 | ガッシャブルムⅡ | 8,035m。無酸素。ベイカー・グスタフッソン、平出和也 | |
ブロードピーク | 8,051m。無酸素。ベイカー・グスタフッソン、平出和也 | ||
2009 | ローツェ | 8,516m。無酸素。他3名。 | |
2011 | チョ・オユー | 8,201m。無酸素。中島健郎。 | |
2012 | ダウラギリ | 8,167m。無酸素。中島健郎。 |
竹内洋岳の危機①高度障害で意識不明
14座登頂には、長い年月がかかります。
その間、竹内洋岳もまた、いろいろな局面を乗り越えてきました。
彼は、2回、死んでもおかしくない危機を乗り越えています。
竹内洋岳が初めて命の危機に陥ったのが、2005年のエベレスト登山のときです。
2度めのエベレストを、無酸素で登頂しようというチャレンジでした。
しかし、高度7,700m付近で、突然激しい頭痛に襲われたのです。
そして、意識を失ってしまいました。
重度の高度障害です。
しかし運良く、一緒に登っていた仲間の介抱を受け、奇跡的に回復したのです。
この時助けてくれたゲルリンデ・カールセンブラウナーさんは、看護師の資格を持ち、衛星電話で医師の指示を受けながら治療してくれたそうです。
「脈拍40以下だったし、1時間以内に死ぬと思った」
といいますから、本当に危険な状況だったのです。
このゲルリンデ・カールセンブラウナーさんは、女性で唯一の無酸素8,000m峰14座登頂者です。
ちなみに、竹内洋岳は無酸素ではありません。
愛称は「シンデレラ・ブルドーザー」
竹内洋岳の危機②雪崩事故
2007年、次の危機が竹内洋岳を襲いました。
ガッシャブルムⅡ峰に登っている途中、大規模な雪崩に巻き込まれたのです。
数百m流されたのですが、付近にいた各国の登山隊の救助活動により、無事に掘り出されました。
仲間2名がなくなってしまいました。
彼は、腰椎と肋骨の骨折のため、
「もうヒマラヤ登山は無理だろう」
と言われましたが、リハビリで復活したのでした。
彼いわく、
「あそこにいた、誰か1人が欠けてただけでも、私は死んでいた」
と、自身の幸運を感謝しています。
竹内洋岳のひととなり
それでは、彼のエピソードを紹介しながら、ひととなりなどを、書いてみます。
長身ゆえのフォームの美しさ
私が彼の映像を観て、いつも感じるのが、登るフォームの見栄えです。
彼は身長180cmと、日本の登山家の中ではかなり長身です。
日本の登山家は、なぜか背が低い人が多いんですよね。
長い手足を使って登っていくさまは、ダイナミックで、ハッとする格好良さを持っています。
いつでも落ち着いている
前述の「シンデレラ・ブルドーザー」こと、ゲルリンデ・カールセンブラウナーさんが、彼についてこう語っています。
「ヒロ(竹内)は、8,000mにいても、まるで街なかにいるように、落ち着いている。
精神力・体力的にタフで、とても強い」
たしかに、彼の話し方は、つねに落ち着いていて、感情の起伏が少ないように感じます。
悪く言えば、ボサーっとしている感じなのですが、安心感のある人だなと感じます。
ダウラギリでのビバークに入る際にも、とても冷静な声でした。
中島健郎との会話
14座最後のダウラギリ登山では、中島健郎がパートナーでした。
しかし、中島健郎は高度障害のため、体調を崩してしまいました。
スピードの上がらない彼に、即座に下山するように伝えます。
中島健郎は、悔し涙を流しながら、下山していきます。
竹内洋岳は、登頂後、一晩ビバークをして下山してきます。
迎えに出て、責任を感じて謝る中島健郎に、
「中島さんがいないから、苦労しちゃったよ(笑)」
と、優しく声をかけました。
責めるわけでもなく、気を使うわけでもなく、いい雰囲気でした。
優しい兄貴肌の登山家だと思います。
山を哲学的に
「山というのは、ただの地球のでっぱりなんだけど、そこに人が登ろうとして歴史ができる。
そして、山と人が合わさって、山の魅力を増していくんだと思います」
彼は、ただ登るだけの登山家ではなく、哲学的に登山を考えるインテリな一面を感じます。
栗城史多を批判
彼は、栗城史多を批判しています。
「なぜ彼は『単独』『無酸素』という言葉をこうも安易に使ってしまうのだろうか?(中略)恐らく、この栗城さん自身は『単独』とか『無酸素』とかの意味をそこまで深くは考えていなかったのかもね。(中略)たぶん、彼の周りにいる大人がなにか『美味しい都合』で、いろいろ脚色したんじゃないかな? よくわからない一般の人々を、だまそうとしてるみたいな…」
彼自身だけじゃなく、背後にあるものを含めて、批判している感じでしょうか。
後輩との関係
2008年の2つの登山(ガッシャブルムⅡ、ブロードピーク)で、平出和也と一緒に登っています。
竹内洋岳と平出和也は、登山スタイルが違います。
ノーマルルート中心の竹内洋岳に対し、バリエーションルート中心の初登などを狙う平出和也というのが、どうも噛み合わないのです。
平出和也は山岳カメラマンとしての立場もあるので、そういう意味での同行だった可能性もあります。
しかし、私はこう推測します。
のちのち、別の登山スタイルになっていくにしろ、平出和也にとっても、
ヒマラヤのという高所の登山ノウハウを得る
ために必要だったのかな、と。
竹内洋岳に同行することによって高所の経験を得て、そして、独り立ちしていったのではないでしょうか。
同じ日本人登山家同士、そうやってノウハウをつなげているのだと思います。
竹内洋岳とともに登った平出和也、中島健郎の2人が、今は組んで一緒に登っています。
同行経験のある2人の登山家の記事もあわせてどうぞ。
最後に
竹内洋岳は、自身の目標を
8,000m峰14座登頂
に掲げて、達成しました。
世間的には有名になりました。
しかしその大半が、団体で、しかも一般ルートでの登頂です。
残念ながら、登山家の間では、レベルがどうこう議論されるような対象ではないでしょう。
しかし、登山家は、強いか強くないかだけで、語るものでもありません。
どのように目標を決めて、どのような登山をして、どのように達成に向かうか?
その生き様すべてが、私たちに、勇気を与えたり、感動を与えたりしてくれるのです。
竹内洋岳は、そういう登山家の1人だと思います。
彼が自身のことを「プロ登山家」と称するのは、そういう意味があると思っています。