こんにちは、寝袋!です。
かつて、世界最強のクライマーと呼ばれた、山野井泰史さんを知っていますか?
アクシデントにより、今では最強の称号は遠いものになりました。
また、若いクライマーたちの台頭によって、
「山野井泰史さんの名を知る人も、多少は少なくなったのかな?」
と思っていました。
しかし、雑誌が登山者たちを対象に
「好きな登山家は?」
と、アンケートをとったところ、
今でも山野井泰史が不動の第一位
だったそうです。
ファンとして、とても嬉しいです。
なぜ彼が、今でも登山者たちの心をとらえて離さないのか?
思いっきりファン目線で、紹介します。
目次
山野井泰史とは?
![](https://nebukurou.com/wp-content/uploads/2019/03/20180106-yy11.jpg)
山野井泰史は、
『天国にもっとも近いクライマー』
『生きていることが不思議』
と言われた、世界最強のクライマーでした。
「登れることがわかっているから、登らない」
と、エベレストにも登ったことがありません。
有名な山かどうかに関係なく、とにかく、
より難しい山を、より難しいルートで
登ることに喜びを感じて、挑み続けているクライマーなのです。
あまりにもギリギリで危険な挑戦を繰り返し、
いつ死んでもおかしくない
と思われていたので、上のように讃えられました。
山野井泰史の経歴
![](https://nebukurou.com/wp-content/uploads/2019/03/20180106-yy10.jpg)
まずは、おおまかに、山野井泰史の登攀歴を並べてみます。
wikiからの抜粋です。
- 1988年 23歳:北極圏のバフィン島(カナダ)にあるトール西壁を7日間で単独初登攀
- 1990年 25歳:フィッツ・ロイ、冬季単独初登
- 1991年 26歳:ヒマラヤ、ブロード・ピーク登頂
- 1992年 27歳:ヒマラヤ、アマ・ダブラム(6,812m)西壁冬季単独初登攀
- 1993年 28歳:ヒマラヤ、ガッシャブルム4峰東壁単独登攀の撤退後、ガッシャブルム2峰登頂
- 1994年 29歳:ヒマラヤ、チョ・オユー南西壁単独初登(新ルート開拓)
- 1995年 30歳:ヒマラヤ、レディースフィンガー南西壁初登:ヨセミテ、エル・キャピタン南東壁:ロスト・イン・アメリカルート(グレード:5.10/A5)登頂
- 1996年 31歳:ヒマラヤ、マカルー西壁(単独、敗退)
- 1997年 32歳:アンデス、ワンドイ東壁登頂。ヒマラヤ、ガウリシャンカール(7,134m)北壁(単独、敗退)
- 1998年 33歳:ヒマラヤ、クスム・カングル(6,367m)東壁単独初登:マナスル北西壁、雪崩により撤退
- 1999年 34歳:アンデス、アルパマヨ南西壁、アルテソンフラ南壁:バンユラフ東壁登攀:ヒマラヤ、パキスタン無名岩峰(5,900m)登頂
- 2000年 35歳:ヒマラヤ、K2登頂。南南東リブより無酸素
- 2001年 36歳:ヒマラヤ、ラトックI峰(7,144m)北壁登攀(ヴォイテク・クルティカと、撤退):ビャヒラヒ・タワー南稜登頂(新ルート初登)
- 2002年 37歳:ヒマラヤ、ギャチュン・カン北壁登頂に成功(北壁第二登)するも、下山時に嵐と雪崩に巻き込まれ重度の凍傷に罹り、両手の薬指と小指、右足の全ての指を切断する
- 2004年 39歳:中国、四姑娘山のポタラ北壁(高さ800m)に挑戦するも敗退
- 2005年 40歳:中国、四姑娘山のポタラ北壁単独登頂
- 2006年 41歳:ヒマラヤ、パリラプチャ北壁登攀に挑戦するも敗退
- 2007年 42歳:グリーンランドのミルネ島にある高さ1,300mの大岩壁、通称「オルカ」初登
- 2008年 43歳:キルギスタン、ハン・テングリ(7,010m)登頂。同、カラフシン・アクスウ谷、ロシア正教100周年峰登頂(フランス・ルート、グレード5.10)、セントラルピラミッド登攀
- 2009年 44歳:チベット、カルジャン(7,300m)南西壁(敗退)
- 2011年 46歳:パキスタン、タフラタム(6,651m)北西壁(敗退)
- 2013年 48歳:ペルーアンデス、プスカントゥルパ峰(5,410m)南東壁登頂:トラペシオ峰(5,653m)南壁(新ルート)
- 2017年 52歳:インドヒマラヤ、ラダック、ザンスカールにある未踏峰初登「ルーチョ」と命名(6,000m) 東壁登攀
運命を分けたギャチュンカン登頂
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山野井泰史を語る上で、ギャチュンカン登頂のことを、外すわけにはいきません。
ギャチュンカン登頂までの山野井泰史は、間違いなく世界最強のクライマーでした。
しかし、失礼を承知で言えば、ギャチュンカン登頂後の雪崩により、彼は世界最強のクライマーではなくなってしまったのです。
彼自身、著書の中で書いています。
「指を失った現在、挑戦する資格もなくなったことが、決定的となった。
長い間温めていた、最高の夢をあきらめなければならない」
それでは、運命を変えたギャチュンカンの一件を見ていきましょう。
山野井泰史だけが登頂
ギャチュンカンは、妻の山野井妙子と2人で挑みました。
厳しい登山の末、体調不良の妙子は山頂直下で待機し、山野井泰史だけが登頂を果たしました。
そして下山を始めた時、嵐と雪崩に襲われ、2人には試練の時となったのです。
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1晩目のビバーク
小さな雪崩に何度も襲われながら、2人は下山を続けていました。
しかし、12時間かかっても、たったの300mしか降りることが出来ませんでした。
夜になったのでビバーク(緊急的に留まること)を開始します。
まだ標高7,200mでのことです。
角度70°の氷壁に、幅10cmにもみたないテラス(平らなところ)を削り出しました。
お尻を半分だけかけて座り、マイナス40℃の夜をじっと耐えたのです。
とうとう雪崩に
何度も襲ってくる、小さな雪崩に耐えていましたが、とうとう大きな雪崩が、2人を襲いました。
山野井泰史は踏みとどまることができましたが、妙子は滑落し、ロープにぶら下がる形となりました。
山野井泰史は妻を救出するべく、その場へ降りていこうとします。
しかしなんと、雪崩の衝撃で、山野井泰史は視力を失っていたのです。
眼球が凍っていたのではないかと、本人は語っています。
目の見えない状況で、なんとか岩の隙間にハーケン(小さな杭のようなもの)を打ち込まなければなりません。
ハーケンにロープを通すためです。
山野井泰史は、大きな防寒グローブを外し、指で手探りで岩の隙間を探していきます。
「失ってもいい指から順番に」
と、左手の小指で行いました。
しばらくすると指は凍ってしまいますので、凍ったら、次の指に変えてということを繰り返しました。
ハーケンを1本打つのに、1時間ほどかかったそうです。
声を頼りに方向を決め、なんとか彼は、妻と合流することが出来たのです。
極限の夜
視力のない彼は、妙子に指示して、今晩のビバークの体制を作らせます。
今回は、氷壁を削れなかったために、氷に穴を開けてロープを通しブランコを作りました。
そのブランコに2人は腰掛けて、また夜を耐えることになりました。
ちなみにこの夜、妙子も視力をほとんど失ってしまいました。
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イメージ的にはこんな感じ(山野井本人画)
「死のクレバスよりすごいかもね」
2人は、耐えながら、
「もし生還できたら『死のクレパス』よりすごいかもね」
と話し合ったそうです。
『死のクレパス』は、山からの奇跡の生還の実話です。
『運命を分けたザイル』という名で映画化されています。
まさに奇跡の生還劇です。
素晴らしい映画です。
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なんとか安全地帯に
2人は命からがら氷壁を降り、比較的安全な場所へたどり着きました。
しかし、2人とも疲労困憊で、生きてベースキャンプまでたどり着けるか、わからなかったそうです。
2人は生前の最後の姿かもしれないと、お互いの写真を撮りました。
幻覚と戦いながら雪原のラッセルをつづけ、なんとかベースキャンプに生還できたのです。
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遭難ではない
2人が帰り着くまで、ベースキャンプの留守番は速報を入れました。
『山野井泰史、帰らず』のニュースは、世界を駆け巡りました。
今だったら、おそらく「遭難」という報道をされたと思います。
しかし、彼らは困難に巻き込まれたものの、自力で脱出し、自力で帰ってきました。
彼らは「遭難ではない」と言っていますし、登山界も、生還をただ喜びました。
彼らは奇跡の生還を果たしましたが、代償は大きく、山野井泰史と妙子は、
手足の多くの指を凍傷で失う
ことになってしまったのでした。
これが、ギャチュンカンの生還です。
山野井夫妻の現在
それからの2人は、どうなったのでしょう?
登攀能力は?
ギャチュンカン以降、2人は指を失っても、クライミングを続けています。
「もうふつうの山歩きしか出来ないかな?」
と、はじめは思ったそうです。
しかし、トレーニングをし、登攀の世界に戻ってきたのです。
5年後にグリーンランドのオルカという岩壁を登ったときの映像では、
「最盛期の70%」
と話しています。今はどうなのでしょうか?
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その後も
経歴の通り、彼らは今でもクライミングを続けています。
私には、今登っているルートのレベルはわかりません。
しかし、今でも「初登」「新ルート」という言葉が並ぶことから、
彼らのスタイル自体は変わっていない
ということがわかります。
彼らは、彼らの登りたい山にこだわり、挑戦し続けているのです。
山野井夫妻のエピソード
山野井泰史・妙子夫妻が、登山者たちの心を惹きつけるのは、けっして登山だけではありません。
(ちなみに前述のアンケートで、女性第1位は山野井妙子です。夫婦で1位!)
彼らの個性が伝わってくるエピソードを、いくつか紹介します。
『となりのトトロ』にトラウマ
1991年、ブロード・ピークは彼らが唯一、団体で登った登山です。
ヒマラヤという世界を知るために、試しに参加したそうです。
しかし、団体の規律を第一に考える登山は、彼らにとって大きなストレスでした。
当時のベースキャンプで、繰り返し流れていた『となりのトトロ』の歌を聴くと、今でも嫌だそうです。
熊に襲われた
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ギャチュンカンのあと、リハビリとトレーニングを続けている時のことです。
いつものジョギングコースを走っていたら、熊に襲われました。
「ずっと下を向いて走っていたら、親子の熊がいるところに突っ込んだ」
そうです。
山野井泰史は、顔を熊に噛まれ、鼻が皮膚一枚でつながっている状態になったそうです。
顔など90針を縫う、大怪我となったのです。
しかし、
「ぼーっと走っていた自分が悪い。今までにない恐怖を味わったけど、大好きな自然の動物に触れ合えて、いい経験をした」
と語っています。事故直後に、
「熊、無事に逃げて、捕まらなければいいけど・・・」
と心配していたそうです。
指を切断するとき
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妙子夫人は指がすべてありません
凍傷で指を切断する時、強さを見せたのが妙子夫人です。
入院中、小指を詰めた暴力団員が、泣き叫んでいたそうです。
看護婦が、
「指1本くらいで恥ずかしい。女性病棟には、指を全部切って平気な人がいますよ」
と言ったそうです。
すると、その暴力団員は恥じ入り、菓子折りを持って、妙子夫人を見舞いに訪れたそうです。
また、妙子があまりにも見事に激痛に耐えるので、他の登山者が、
「少しは痛がってもらわないと、私の立場がなくなる」
と苦情(?)を言ったそうです。
指を切断後
妙子夫人は、すべての指を第一関節から切断しました。
ほとんど指がない状態です。
しかし、入院中も、平気でコンビニへ行き、買い物していたそうです。
普通の人なら、人目を気にして出来ませんよね。
NHK英会話ラジオ8年
妙子夫人は、海外でも使えるように、英語をマスターしたそうです。
その手段が、NHKラジオ英会話番組を8年間聴き続けて、というから驚きです。
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誰も危ないとは言わなくなった
若い頃、山野井泰史はあまりにも挑戦的すぎるので、
「お前は危ない。もう少しステップを踏め」
と忠告されたそうです。
しかし、しばらくすると、誰にも言われなくなったそうです。
実力を認められたというより、
「そもそも、僕が行っているルートが危ないかどうか、わかる人が日本にいなくなった」
のだそうです。
トップとは、こういうことなんですね。
登っていない疑惑について
昔、ある世界のトップクライマーが、未踏の難ルートを登りました。
しかし、いろいろな疑惑があって、彼が本当に登頂したのかどうか、議論がおきました。
山野井泰史は、彼らしい表現で断言しています。
「彼は、登っていない。なぜなら、それから数年たっても、次に誰も登っていないから。僕らにはわかるんだけど、登れるとわかったルートって、簡単に登れるものなんだよね。後に続かないってことは、誰も登れていないってこと」
指、全部切って揃えようかな?
ギャチュンカン後、山野井泰史は両手の小指・薬指を失いました。
対して、妙子夫人は、すべての指が第一関節で切断されています。
山野井泰史は、
「3本だけ長いから、それに頼っちゃう。妙子のように全部同じ長さのほうが強い。全部切っちゃいたいくらい」
と話しています。
妙子夫人はデキる女
山野井さんのご両親、結婚前にはじめて妙子夫人に合った時、正直戸惑ったそうです。
愛想もよくないし、生活できるのか、と。
ところが、妙子夫人は布団の打ち直しも出来るなど、古風でしっかりした女性だとわかってきます。
そして、のちに2人がギャチュンカンで帰らなかった時、
「泰史はともかく、妙子は無事でいてくれ!」
と願ったそうです。
妙子夫人は娘のような存在だと、お父上は語っておられます。
山野井泰史語録
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エピソード以外に、彼が語る言葉からも、魅力がにじみでています。
いくつか紹介します。
『いい山登りだった。楽しかったしね』(ギャチュンカンの生還の後)
『まじめに遊んでるんです。この遊びに命かけてるからね』
『山は仰ぎ見るものだと思う。ドローンで上から見下ろしたら、失礼だと感じます』
『登る行為すべてが楽しい』
『振り返っている余裕はありません。明日のことだけが気になりますよ。
ギャチュンカンのことなんて、どうでもいいです。指の問題もへったくれもないです』(オルカ登頂前日)
『僕なんて、技術も体力もたいしてないけど、モチベーションだけは今も昔もある』
『私は酸素ボンベは絶対に使いません。8,000mは危ないから、使う人を否定するつもりはないけどね』
『僕には、登る意義なんて、ほんとうに関係ないのだ』
『山で死んではいけないという風潮がある。しかし、山で死んでもいい人間がいる。そのうちの1人が自分だと思う。これは、僕に許された最高の贅沢かもしれない』
私が山野井夫妻を好きな理由
私は山野井泰史・妙子夫妻は、大好きです。
私なりに、2人の魅力を書いてみます。
質素な暮らしをする理由
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山野井夫妻は、家庭菜園で野菜を作り、家に備えてあったカマドで、薪で火をおこして生活しています。
家賃は2万5千円、生活費は保険込みで月15万円だそうです。(父親談)
「山にはお金は掛けるけど、他には掛けない」
と話しています。
とても質素な生活と言っていいでしょう。
しかし、彼らはこう言いいます。
「別に節約しているわけじゃなくて、こういう生活が好きなだけなんです」
この人、たぶんお金を稼ごうと思えば、かんたんに稼げます。
でも、必要以上に稼ごうとしないんですよね。
彼らは、質素な生活でお金がかからないので、登山の資金は自分たちでなんとか出来ます。
テレビやスポンサーの顔色をうかがわず、自分たちが登りたい山だけに登りたいのです。
質素な生活には、そういう一面もあるのです。
![](https://nebukurou.com/wp-content/uploads/2019/03/20180106-yy16.jpg)
有名にならない理由
昔、テレビ局から、エベレストに登って欲しいと依頼されたらしいです。
「エベレストなんて簡単だし、登りたくない。もっと難しいパタゴニアなどを登るならいいけど」
と答えると、テレビ局側としてはダメらしい。
世間的には、エベレストが一番わかりやすくて、価値があるのです。
結局、断ったそうです。
彼らは、表立って他人のことなど言いませんが、
「七大陸最高峰とか、そんなんでクライマーとして、いいものなのだろうか?」
と、疑問を投げかけたことはあります。
まれに、テレビや雑誌に出ることもありますが、彼らは、
「もし出たら、両親が喜んでくれるかどうか?」
で決めているそうです。
世間的に有名にならないわけはこういうことです。
そもそも前述の通り、彼らは
「名前を売って、有名になる必要がない」
のです。
![](https://nebukurou.com/wp-content/uploads/2019/03/20180106-yy12.jpg)
登りたい壁を見つけたときの無邪気なテンション
他人の目を気にしない
私のような、出来ていない人間だったら、たぶんエベレストに登ってると思うのです。
なぜなら、
「なんだ、あの人最強とか言うけど、エベレスト登ってないじゃん」
と、一般人に言われるのが嫌だからです。
山野井泰史は、そういうことをいっさい気にしません。
誰になんと思われようが、そんなこと関係ないのです。
ただ、自分たちが登りたい山に挑んで、登りたいだけなんです。
![](https://nebukurou.com/wp-content/uploads/2019/03/20180106-yy13.jpg)
ファンの方がヤキモキ
本人たちの気持ちをよそに、私たちファンのほうが、ヤキモキしているかもしれません。
「もっと山野井泰史のことを知って欲しい。こんなクライマーがいることを知って欲しい」
と、情報発信したいのです。
ファンとしては、
メディアに名前を売ることが上手い登山家
が、テレビで偉そうに語っているのを見ると、悔しいんだよなあ。
山野井夫妻は「余計なお世話」と言うのでしょうが・・・。
山野井夫妻をもっと深く知って欲しい
たくさんの映像記録、著書、関係図書から抜粋して、記事を書いてきました。
しかし、私の文章力で、全部伝えられるわけもなく、かえって歯がゆい思いをしています。
ぜひ、もっと彼らのことを、深く知ってください。
ここで興味を持ってくれた人なら、さらに彼らの魅力がわかるでしょう。
ブログ
月に1回未満の更新です。少ない言葉ですが、素朴な言葉に彼の人柄がよくわかります。
彼の近況を知ることが出来る、貴重な場所です。
本・雑誌
まずは、なんといっても、彼の自著です。
彼が登ってきた数々のクライミングから、いくつか選んで彼本人が詳しく書いています。
特に、ギャチュンカンの生還について読んでください。
そして、これを読んだ上で、ギャチュンカンの生還を沢木耕太郎が書いたものと、比べて欲しいと思います。
対比がとてもおもしろいです。
また、山野井泰史・妙子夫妻の、細かな日常生活の様子や考えなど、よく取材されています。
彼が、壁を見ただけで萎縮し、取り付くことなく逃げ帰ったエピソードなどが書かれています。
翌年、再チャレンジして登りましたが。
映像作品
私が知る限り、山野井夫妻のことを観れる映像作品は、このDVDしかありません。
ギャチュンカンの生還から5年、トレーニングを積んで再びクライミングの世界に戻ってきました。
グリーンランドにある名もなき岩壁に、夫婦で挑みます。
山野井泰史のクライミングが観れる、唯一の作品です。