こんにちは、寝袋!です。
数年前、私も多少関係する、ある無人の山小屋で盗難事件がありました。
小屋の協力金の入った箱が壊されて、中にあったお金が盗まれたのです。
簡単に行ける場所ではないので、登山者以外は訪れない小屋です。
お金の損失よりも、
「登山をする人がそういうことをした」
という事実に、関係者一同悲しみました。
さて、その事件が新聞に掲載されたすぐあとに、私はその登山者と出会いました。
東京から北海道へ、飛行機で来た人でした。
その人は、翌朝その山小屋へ出発すると言いますが、装備も不十分のようでした。
私は危ないと感じましたので、注意をするように伝えたのですが・・・
その小屋は日帰りでは行けない
その人の姿格好は、とても登山をやる人の装備とは思えず、出発前の様子を見て、私は不安を覚えました。
「その装備では、小屋までは問題ありません。でも、山頂は行けませんよ」
その方は注意をよそに、はっきりと言われます。
「大丈夫です。私は小屋までしか行きません。山頂へは行かないんです」
「そもそも、私は登山に興味がないのです」
私は意味が理解できず、失礼ながら怪しみさえしました。
もしかして、盗難事件を聴いて、2匹目のどじょうを・・・?
募金するために行く
「先日、山小屋で盗難事件があったと聞きました。私は山をやらない人間ですが、悲しく思いましたし、怒りを感じたんです」
「ですから、私はその山小屋まで行って、募金してきたいのです」
私は疑念が消えると同時に、感激しました。
でも、それでもまだ理解できない点がありました。
「私も関係者の1人として嬉しいんですが、それならば、小屋を維持している人間を紹介しますから、直に手渡しされてはいかがでしょう?」
その人はすぐ近所に住んでいますから、車で5分です。
わざわざ丸一日歩いて、山小屋へ行くのは馬鹿げています。
それじゃだめなんです
ところが、その人は納得してくれません。
「いいえ、私はやっぱり小屋まで行きます」
「山に登る人間が盗難したということは、さぞ、みなさんお悲しみでしょう。記事からはそう伝わってきました。私はそのお金を補填するのが目的じゃないんです。私は、山に登ってまで悪事を働いた人間がいたというマイナスを、ゼロにしたいんです。信頼関係で成り立ってきた同じ趣味の仲間を、疑いの目で見るようになってはいけません」
その方は、山ではないですが、同じような悲しい経験をされたということでした。
それまで信頼関係で成り立っていたことが、たった一つの出来事で、お互いに疑いに変わっていったというような。
実はそのとき、山小屋の協力金箱を金属製で頑丈にするとか、鍵を厳重にするとか、そういう対策が話し合われていました。
たった1人のせいで、そういう対策をするところだったのです。
ちなみにそれまでは、何十年も箱は木箱で、鍵はおもちゃのようなものでした。
持ち帰ることも、壊すことも簡単だったのです。
過去は
過去、その箱はいろいろな出来事がありました。
「お金が足りなかったから、テレホンカードを入れたけど許してほしい」
「避難で利用してお金がなく、薪割りと焚付けを作っておきました」
「昨年、お金を入れずに帰ったので、今回の分とあわせて(少し多めに)おいていきます」
「この山奥に小屋があるおかげで助かりました。感謝の気持ちを詩に書きましたので入れておきます」
というような、宿泊ノートと一緒に運営されてきたのです。
私はそのノートを読むのが大好きで、感動させてもらいました。
お金のやり取りだけじゃない、熱いものを感じたんですね。
甘っちょろいかも知れないけれど、そういう世界があってもいいじゃないか。
しかし、関係者がいろいろ話し合った結果、やはり協力金箱は頑丈に作り変えられました。
募金するためだけに、山小屋へ行った人の願いは叶いませんでした。
でも、私もそうですし、おそらく数人の心のなかには残っているはずです。
私は今でも金属製の頑丈な箱を見るたびに、申し訳ない思いになってしまいます。