こんにちは、寝袋!です。
2015年7月7日、トムラウシ山で単独行の男性が遭難死する事故がありました。
あの2009年のトムラウシ大量遭難事故と同じ状況、同じルートでの遭難事故です。
人数が1名というためなのか、たくさんの山岳遭難事故の1つとして、さほど大きなニュースにもなりませんでした。
その時たまたま、私の知り合い(単独行×2名)が、付近に居合わせました。
- ヒサゴ沼避難小屋で同泊し、遭難者を見送った人
- 同日、トムラウシ近くの三川台という場所でテント泊で停滞していた人
です。
私はお二人から、詳細な状況を聞くことが出来るという、貴重な経験ができました。
そこで、まとめてお伝えすることで、登山者の教訓になればと考えました。
なぜ、遭難者は嵐の中、強行したのでしょうか?
周りから見た出発前の遭難者の様子は、どうだったのでしょうか?
目次
遭難時の気象状況
2015年7月7日は、日本の南の方に次々と台風が近づいていました。
同時に3つの台風が接近中と、ニュースになっていたのです。
北海道も低気圧に覆われ、天気予報では、5日の時点ですでに、
7日は大荒れ
という予報が出ていたようです。
遭難事故周辺の地図
周辺の事情がわからない人のために、地図を作ってみました。
遭難者は、大雪山方面から縦走してきて、7月6日、ヒサゴ沼避難小屋に宿泊しました。
7日は、トムラウシ山を登頂し、そのまま下山する予定でした。
参考のためにコースタイムを説明しますと、
ヒサゴ沼→トムラウシ | 3時間 |
トムラウシ→トムラウシ温泉 | 5時間 |
という感じです。
トムラウシ山頂からトムラウシ温泉までは、下山でも登り返しが多く、しかも長いために時間がかかります。
縦走の場合、通常の登山口である短縮登山口ではだめで、1時間ほど長くなります。
遭難事故の朝、ヒサゴ沼で
7月6日、ヒサゴ沼避難小屋には、8組13名が宿泊していました。
夜半から強い雨と風でした。
強行する組、停滞する組がありましたが、トムラウシ方面への強行組は、4組でした。
4組とは、単独の遭難者1名、中年夫婦2名、若者2名、学生3名、でした。
小屋内は和やかなムードで、遭難者は68歳でしたので、同宿者からは「おじいさん」と呼ばれていたそうです。
遭難者は、宿の予約(おそらくトムラウシ温泉登山口の東大雪荘)と、飛行機の予約を気にしていました。
しかし、天気が悪いために、強行するかどうか決めかねていたようです。
遭難者が強行を決意
しかし、遭難者とよく話していた学生3名が、強行することを決定。
さらに、2組4名も同じく強行することにしたということです。
引っ張られるようにして、遭難者もまた強行することになったのです。
驚くべきことに、半分以上の13名中8名が、トムラウシへ強行するという異常事態です。
停滞することを決めていた知人Aさんは、みんなに停滞を呼びかけていました。
ところが聞き入れられず、
「ヒサゴ沼は西からの風が防がれているのに、この風です。稜線に出て、ひどかったらすぐに引き返したほうがいい」
と最後に忠告をしたのでした。
最後に出発していった若者2名は、稜線に出てあまりの嵐(アラレまじりの暴風)に、即刻引き返しました。
また、中年夫婦2名は、無事にトムラウシ山頂を往復したものの、全身びしょ濡れで帰ってきました。
トムラウシ手前ロックガーデンにて
ヒサゴ沼からトムラウシへ向かうと、山頂のある2000m台地の手前に、ロックガーデンがあります。
岩がゴロゴロと積み重なったところで、最後の大きな登りです。
中年夫婦2名は、山頂からの帰りに、ここで遭難者とすれ違ったそうです。
トムラウシ山頂手前、北沼にて
私の調査では、さまざまな憶測の情報がありました。
ですから、遭難者がトムラウシ山を登頂した(下山を断念しヒサゴ沼へ引き返す)のか、その手前だったのかは断言できません。
遭難者は、トムラウシ山頂手前の北沼で動けなくなっているところを、トムラウシからヒサゴ沼に向かおうとしていた2人組に発見されました。
動けるかどうか聞いたが動けないと言われ、2人組と遭難者はビバークしたそうです。
ビバーク中、お亡くなりに
このビバークが、テントを使ったものだったのかどうかは不明です。
その方たちのお話が聞ければいいのですが、残念ながら術がありません。
遭難者は朝まで会話も出来たようですが、やがて意識を失い、お亡くなりになったようです。
7月8日の朝
さて、この7月8日という日は、「嵐の後の静けさ」の例えのように、快晴無風の穏やかな日でした。
しかし、明け方までは異様に冷え込んだ日だったのです。
知人Bさんは、トムラウシ山頂から近いテント場(三川台)で、前日から停滞していました。
朝になると、前日からの雨でテントがバリバリに凍りつき「ジッパーが開けられなかった」と苦労話を聞かせてくれました。
地面に染み込んだ雨が、5cmほどの高さの霜柱となって立ち上がり、まるで雪が降ったみたいだったそうです。
この日の気温は、前日と比べて15℃以上冷え、平地でも一桁でした。
標高2,000mでは、氷点下に近かっただろうと思われます。
遭難者が、夜の間頑張れたのに、明け方にお亡くなりになったのも、うなづけます。
乾いた衣服で、テント内であれば、寝袋も食糧もあったはずなので、低体温で死ぬまではなかっただろうと思いますが・・・。
いずれかの条件が欠けていたのでしょう。
事後の動きは複雑で追えず
実はこの遭難事故は、あまり大きくは報道されませんでした。
調べても、ほとんど情報が見つけられませんでした。
私が調べてわかった限りでも、
「通報しなければ」
と動いている人が数人いて、一体誰が最初に救助要請したのかすらわかりません。
一緒にビバークして頑張った2人組も、その場では通報できなかったので、その後の時間関係が不明なのです。
南沼でテント泊していた単独登山者の可能性もありますし、ビバークしていた2人組がすれ違った、4人組の可能性もあります。
携帯電波の届く場所に最初にたどり着いた「誰か」が、通報したことになります。
この遭難の考察
あらためて、この遭難がなぜ起きてしまったのか、考えてみます。
宿・飛行機の予約が頭に
遭難者は、宿と飛行機の予約があるからと気にしていました。
宿と飛行機にキャンセル料金を取られても、命には変えられないでしょうに。
また、当然下山したら家族へ連絡入れることになっていたはずです。
ですから、1日遅れることで、心配を掛けることを恐れたのかも知れません。
そもそも、この遭難者の計画には、予備日が存在しないことがわかります。
1日予備日があれば・・・と思わずにはいられません。
他の強行者の存在「みんなが行くなら」
迷っているところに、強行する人たちが出現します。
「自分も行こうかな?」
という気持ちが芽生えても、おかしくないのです。
実際、学生3名は無事に下山できていますし、中年夫婦2名はとりあえずはトムラウシ往復を果たしています。
それらの判断が正しかったのかどうかは別問題として、とりあえず遭難者が間違ったのは、
他人ではなく、自分の実力で行けるのかどうか
という判断です。
おそらくこのコースは初経験で、判断材料もなかったでしょう。
「みんなが行くのなら、自分も頑張れば行けるだろう」
くらいしか、思っていなかったのでしょう。
あと、唯一ヒサゴ沼に引き返した若者2名が、遭難者より先に歩いていたら、遭難者も引き返したかもしれません。
後続の人たちが引き返したことも知らず、遭難者は前に進み続けたのです。
ヤバイと思ったらもうアウト
登山家の竹内洋岳さんが、登山のことを、
「息を止めて、深海に潜るようなもの。山頂でゴールじゃなくて、下山するまで息がもたないとダメ」
と話しています。
ギリギリまで行って、ヤバイと思った時点でもうアウトなのです。
今回、遭難者は、どこの時点で「ヤバイ」と思ったのでしょうか?
「このまま行ったらヤバイな・・・」
と、なるべく早く気づけるかどうかが、運命の分かれ目なのでしょうね。
その点で、強行したものの、稜線ですぐに撤退してきた若者2名は、よい判断が出来たと言えます。
追加情報(2019年11月追記)
現場付近で停滞していた読者の方から、貴重な追加情報を頂きました。
こちらでご紹介させていただきました。
最後に
たまたま知人2名が居合わせた関係で、この遭難事故を調べることになりました。
調べるうちにわかってきたことは、2009年のトムラウシ大量遭難事故での教訓が、生かされなかったということです。
まったく同じコース、時期、天候にも関わらず、判断を誤ってしまいました。
ここで、お亡くなりになった遭難者の、間違いを責めることには、意味はありません。
大切なのは、自分が(そしてあなたが)、「同じ状況で果たしてどうするか?」を考えることにあるのです。
予備日がなく、宿と飛行機の予約をしてしまった状態で、同じようにヒサゴ沼に泊まっていたら・・・
一緒に泊まっていた人たちが、次々と強行して出発していったら・・・
ちゃんと停滞できるでしょうか?
稜線に出て状態を確認するまでで、我慢できるでしょうか?
行けるところまで行ってみようと、考えはしないでしょうか?
この遭難者の「おじいさん」が、特別愚かだったわけじゃないのです。
誰でも同じ運命をたどった可能性が、あると思います。
体力、日程、お金、気分・・・
何かがほんの少し違っただけで、だれでも運命は変わってしまうもの。
私達は、それを、強い意志で跳ね除けなくてはいけません。