こんにちは、寝袋!です。
かつて、世界最強のクライマーと呼ばれた、山野井泰史さんを知っていますか?
アクシデントにより、今では最強の称号は遠いものになりました。
また、若いクライマーたちの台頭によって、
「山野井泰史さんの名を知る人も、多少は少なくなったのかな?」
と思っていました。
しかし、雑誌が登山者たちを対象に
「好きな登山家は?」
と、アンケートをとったところ、
今でも山野井泰史が不動の第一位
だったそうです。
ファンとして、とても嬉しいです。
なぜ彼が、今でも登山者たちの心をとらえて離さないのか?
思いっきりファン目線で、紹介します。
目次
山野井泰史とは?
山野井泰史は、
『天国にもっとも近いクライマー』
『生きていることが不思議』
と言われた、世界最強のクライマーでした。
「登れることがわかっているから、登らない」
と、エベレストにも登ったことがありません。
有名な山かどうかに関係なく、とにかく、
より難しい山を、より難しいルートで
登ることに喜びを感じて、挑み続けているクライマーなのです。
あまりにもギリギリで危険な挑戦を繰り返し、
いつ死んでもおかしくない
と思われていたので、上のように讃えられました。
山野井泰史の経歴
まずは、おおまかに、山野井泰史の登攀歴を並べてみます。
wikiからの抜粋です。
- 1988年 23歳:北極圏のバフィン島(カナダ)にあるトール西壁を7日間で単独初登攀
- 1990年 25歳:フィッツ・ロイ、冬季単独初登
- 1991年 26歳:ヒマラヤ、ブロード・ピーク登頂
- 1992年 27歳:ヒマラヤ、アマ・ダブラム(6,812m)西壁冬季単独初登攀
- 1993年 28歳:ヒマラヤ、ガッシャブルム4峰東壁単独登攀の撤退後、ガッシャブルム2峰登頂
- 1994年 29歳:ヒマラヤ、チョ・オユー南西壁単独初登(新ルート開拓)
- 1995年 30歳:ヒマラヤ、レディースフィンガー南西壁初登:ヨセミテ、エル・キャピタン南東壁:ロスト・イン・アメリカルート(グレード:5.10/A5)登頂
- 1996年 31歳:ヒマラヤ、マカルー西壁(単独、敗退)
- 1997年 32歳:アンデス、ワンドイ東壁登頂。ヒマラヤ、ガウリシャンカール(7,134m)北壁(単独、敗退)
- 1998年 33歳:ヒマラヤ、クスム・カングル(6,367m)東壁単独初登:マナスル北西壁、雪崩により撤退
- 1999年 34歳:アンデス、アルパマヨ南西壁、アルテソンフラ南壁:バンユラフ東壁登攀:ヒマラヤ、パキスタン無名岩峰(5,900m)登頂
- 2000年 35歳:ヒマラヤ、K2登頂。南南東リブより無酸素
- 2001年 36歳:ヒマラヤ、ラトックI峰(7,144m)北壁登攀(ヴォイテク・クルティカと、撤退):ビャヒラヒ・タワー南稜登頂(新ルート初登)
- 2002年 37歳:ヒマラヤ、ギャチュン・カン北壁登頂に成功(北壁第二登)するも、下山時に嵐と雪崩に巻き込まれ重度の凍傷に罹り、両手の薬指と小指、右足の全ての指を切断する
- 2004年 39歳:中国、四姑娘山のポタラ北壁(高さ800m)に挑戦するも敗退
- 2005年 40歳:中国、四姑娘山のポタラ北壁単独登頂
- 2006年 41歳:ヒマラヤ、パリラプチャ北壁登攀に挑戦するも敗退
- 2007年 42歳:グリーンランドのミルネ島にある高さ1,300mの大岩壁、通称「オルカ」初登
- 2008年 43歳:キルギスタン、ハン・テングリ(7,010m)登頂。同、カラフシン・アクスウ谷、ロシア正教100周年峰登頂(フランス・ルート、グレード5.10)、セントラルピラミッド登攀
- 2009年 44歳:チベット、カルジャン(7,300m)南西壁(敗退)
- 2011年 46歳:パキスタン、タフラタム(6,651m)北西壁(敗退)
- 2013年 48歳:ペルーアンデス、プスカントゥルパ峰(5,410m)南東壁登頂:トラペシオ峰(5,653m)南壁(新ルート)
- 2017年 52歳:インドヒマラヤ、ラダック、ザンスカールにある未踏峰初登「ルーチョ」と命名(6,000m) 東壁登攀
運命を分けたギャチュンカン登頂
山野井泰史を語る上で、ギャチュンカン登頂のことを、外すわけにはいきません。
ギャチュンカン登頂までの山野井泰史は、間違いなく世界最強のクライマーでした。
しかし、失礼を承知で言えば、ギャチュンカン登頂後の雪崩により、彼は世界最強のクライマーではなくなってしまったのです。
彼自身、著書の中で書いています。
「指を失った現在、挑戦する資格もなくなったことが、決定的となった。
長い間温めていた、最高の夢をあきらめなければならない」
それでは、運命を変えたギャチュンカンの一件を見ていきましょう。
山野井泰史だけが登頂
ギャチュンカンは、妻の山野井妙子と2人で挑みました。
厳しい登山の末、体調不良の妙子は山頂直下で待機し、山野井泰史だけが登頂を果たしました。
そして下山を始めた時、嵐と雪崩に襲われ、2人には試練の時となったのです。
1晩目のビバーク
小さな雪崩に何度も襲われながら、2人は下山を続けていました。
しかし、12時間かかっても、たったの300mしか降りることが出来ませんでした。
夜になったのでビバーク(緊急的に留まること)を開始します。
まだ標高7,200mでのことです。
角度70°の氷壁に、幅10cmにもみたないテラス(平らなところ)を削り出しました。
お尻を半分だけかけて座り、マイナス40℃の夜をじっと耐えたのです。
とうとう雪崩に
何度も襲ってくる、小さな雪崩に耐えていましたが、とうとう大きな雪崩が、2人を襲いました。
山野井泰史は踏みとどまることができましたが、妙子は滑落し、ロープにぶら下がる形となりました。
山野井泰史は妻を救出するべく、その場へ降りていこうとします。
しかしなんと、雪崩の衝撃で、山野井泰史は視力を失っていたのです。
眼球が凍っていたのではないかと、本人は語っています。
目の見えない状況で、なんとか岩の隙間にハーケン(小さな杭のようなもの)を打ち込まなければなりません。
ハーケンにロープを通すためです。
山野井泰史は、大きな防寒グローブを外し、指で手探りで岩の隙間を探していきます。
「失ってもいい指から順番に」
と、左手の小指で行いました。
しばらくすると指は凍ってしまいますので、凍ったら、次の指に変えてということを繰り返しました。
ハーケンを1本打つのに、1時間ほどかかったそうです。
声を頼りに方向を決め、なんとか彼は、妻と合流することが出来たのです。
極限の夜
視力のない彼は、妙子に指示して、今晩のビバークの体制を作らせます。
今回は、氷壁を削れなかったために、氷に穴を開けてロープを通しブランコを作りました。
そのブランコに2人は腰掛けて、また夜を耐えることになりました。
ちなみにこの夜、妙子も視力をほとんど失ってしまいました。
「死のクレバスよりすごいかもね」
2人は、耐えながら、
「もし生還できたら『死のクレパス』よりすごいかもね」
と話し合ったそうです。
『死のクレパス』は、山からの奇跡の生還の実話です。
『運命を分けたザイル』という名で映画化されています。
まさに奇跡の生還劇です。
素晴らしい映画です。
なんとか安全地帯に
2人は命からがら氷壁を降り、比較的安全な場所へたどり着きました。
しかし、2人とも疲労困憊で、生きてベースキャンプまでたどり着けるか、わからなかったそうです。
2人は生前の最後の姿かもしれないと、お互いの写真を撮りました。
幻覚と戦いながら雪原のラッセルをつづけ、なんとかベースキャンプに生還できたのです。
遭難ではない
2人が帰り着くまで、ベースキャンプの留守番は速報を入れました。
『山野井泰史、帰らず』のニュースは、世界を駆け巡りました。
今だったら、おそらく「遭難」という報道をされたと思います。
しかし、彼らは困難に巻き込まれたものの、自力で脱出し、自力で帰ってきました。
彼らは「遭難ではない」と言っていますし、登山界も、生還をただ喜びました。
彼らは奇跡の生還を果たしましたが、代償は大きく、山野井泰史と妙子は、
手足の多くの指を凍傷で失う
ことになってしまったのでした。
これが、ギャチュンカンの生還です。
山野井夫妻の現在
それからの2人は、どうなったのでしょう?
登攀能力は?
ギャチュンカン以降、2人は指を失っても、クライミングを続けています。
「もうふつうの山歩きしか出来ないかな?」
と、はじめは思ったそうです。
しかし、トレーニングをし、登攀の世界に戻ってきたのです。
5年後にグリーンランドのオルカという岩壁を登ったときの映像では、
「最盛期の70%」
と話しています。今はどうなのでしょうか?
その後も
経歴の通り、彼らは今でもクライミングを続けています。
私には、今登っているルートのレベルはわかりません。
しかし、今でも「初登」「新ルート」という言葉が並ぶことから、
彼らのスタイル自体は変わっていない
ということがわかります。
彼らは、彼らの登りたい山にこだわり、挑戦し続けているのです。
山野井夫妻のエピソード
山野井泰史・妙子夫妻が、登山者たちの心を惹きつけるのは、けっして登山だけではありません。
(ちなみに前述のアンケートで、女性第1位は山野井妙子です。夫婦で1位!)
彼らの個性が伝わってくるエピソードを、いくつか紹介します。
『となりのトトロ』にトラウマ
1991年、ブロード・ピークは彼らが唯一、団体で登った登山です。
ヒマラヤという世界を知るために、試しに参加したそうです。
しかし、団体の規律を第一に考える登山は、彼らにとって大きなストレスでした。
当時のベースキャンプで、繰り返し流れていた『となりのトトロ』の歌を聴くと、今でも嫌だそうです。
熊に襲われた
ギャチュンカンのあと、リハビリとトレーニングを続けている時のことです。
いつものジョギングコースを走っていたら、熊に襲われました。
「ずっと下を向いて走っていたら、親子の熊がいるところに突っ込んだ」
そうです。
山野井泰史は、顔を熊に噛まれ、鼻が皮膚一枚でつながっている状態になったそうです。
顔など90針を縫う、大怪我となったのです。
しかし、
「ぼーっと走っていた自分が悪い。今までにない恐怖を味わったけど、大好きな自然の動物に触れ合えて、いい経験をした」
と語っています。事故直後に、
「熊、無事に逃げて、捕まらなければいいけど・・・」
と心配していたそうです。
指を切断するとき
凍傷で指を切断する時、強さを見せたのが妙子夫人です。
入院中、小指を詰めた暴力団員が、泣き叫んでいたそうです。
看護婦が、
「指1本くらいで恥ずかしい。女性病棟には、指を全部切って平気な人がいますよ」
と言ったそうです。
すると、その暴力団員は恥じ入り、菓子折りを持って、妙子夫人を見舞いに訪れたそうです。
また、妙子があまりにも見事に激痛に耐えるので、他の登山者が、
「少しは痛がってもらわないと、私の立場がなくなる」
と苦情(?)を言ったそうです。
指を切断後
妙子夫人は、すべての指を第一関節から切断しました。
ほとんど指がない状態です。
しかし、入院中も、平気でコンビニへ行き、買い物していたそうです。
普通の人なら、人目を気にして出来ませんよね。
NHK英会話ラジオ8年
妙子夫人は、海外でも使えるように、英語をマスターしたそうです。
その手段が、NHKラジオ英会話番組を8年間聴き続けて、というから驚きです。
誰も危ないとは言わなくなった
若い頃、山野井泰史はあまりにも挑戦的すぎるので、
「お前は危ない。もう少しステップを踏め」
と忠告されたそうです。
しかし、しばらくすると、誰にも言われなくなったそうです。
実力を認められたというより、
「そもそも、僕が行っているルートが危ないかどうか、わかる人が日本にいなくなった」
のだそうです。
トップとは、こういうことなんですね。
登っていない疑惑について
昔、ある世界のトップクライマーが、未踏の難ルートを登りました。
しかし、いろいろな疑惑があって、彼が本当に登頂したのかどうか、議論がおきました。
山野井泰史は、彼らしい表現で断言しています。
「彼は、登っていない。なぜなら、それから数年たっても、次に誰も登っていないから。僕らにはわかるんだけど、登れるとわかったルートって、簡単に登れるものなんだよね。後に続かないってことは、誰も登れていないってこと」
指、全部切って揃えようかな?
ギャチュンカン後、山野井泰史は両手の小指・薬指を失いました。
対して、妙子夫人は、すべての指が第一関節で切断されています。
山野井泰史は、
「3本だけ長いから、それに頼っちゃう。妙子のように全部同じ長さのほうが強い。全部切っちゃいたいくらい」
と話しています。
妙子夫人はデキる女
山野井さんのご両親、結婚前にはじめて妙子夫人に合った時、正直戸惑ったそうです。
愛想もよくないし、生活できるのか、と。
ところが、妙子夫人は布団の打ち直しも出来るなど、古風でしっかりした女性だとわかってきます。
そして、のちに2人がギャチュンカンで帰らなかった時、
「泰史はともかく、妙子は無事でいてくれ!」
と願ったそうです。
妙子夫人は娘のような存在だと、お父上は語っておられます。
山野井泰史語録
エピソード以外に、彼が語る言葉からも、魅力がにじみでています。
いくつか紹介します。
『いい山登りだった。楽しかったしね』(ギャチュンカンの生還の後)
『まじめに遊んでるんです。この遊びに命かけてるからね』
『山は仰ぎ見るものだと思う。ドローンで上から見下ろしたら、失礼だと感じます』
『登る行為すべてが楽しい』
『振り返っている余裕はありません。明日のことだけが気になりますよ。
ギャチュンカンのことなんて、どうでもいいです。指の問題もへったくれもないです』(オルカ登頂前日)
『僕なんて、技術も体力もたいしてないけど、モチベーションだけは今も昔もある』
『私は酸素ボンベは絶対に使いません。8,000mは危ないから、使う人を否定するつもりはないけどね』
『僕には、登る意義なんて、ほんとうに関係ないのだ』
『山で死んではいけないという風潮がある。しかし、山で死んでもいい人間がいる。そのうちの1人が自分だと思う。これは、僕に許された最高の贅沢かもしれない』
私が山野井夫妻を好きな理由
私は山野井泰史・妙子夫妻は、大好きです。
私なりに、2人の魅力を書いてみます。
質素な暮らしをする理由
山野井夫妻は、家庭菜園で野菜を作り、家に備えてあったカマドで、薪で火をおこして生活しています。
家賃は2万5千円、生活費は保険込みで月15万円だそうです。(父親談)
「山にはお金は掛けるけど、他には掛けない」
と話しています。
とても質素な生活と言っていいでしょう。
しかし、彼らはこう言いいます。
「別に節約しているわけじゃなくて、こういう生活が好きなだけなんです」
この人、たぶんお金を稼ごうと思えば、かんたんに稼げます。
でも、必要以上に稼ごうとしないんですよね。
彼らは、質素な生活でお金がかからないので、登山の資金は自分たちでなんとか出来ます。
テレビやスポンサーの顔色をうかがわず、自分たちが登りたい山だけに登りたいのです。
質素な生活には、そういう一面もあるのです。
有名にならない理由
昔、テレビ局から、エベレストに登って欲しいと依頼されたらしいです。
「エベレストなんて簡単だし、登りたくない。もっと難しいパタゴニアなどを登るならいいけど」
と答えると、テレビ局側としてはダメらしい。
世間的には、エベレストが一番わかりやすくて、価値があるのです。
結局、断ったそうです。
彼らは、表立って他人のことなど言いませんが、
「七大陸最高峰とか、そんなんでクライマーとして、いいものなのだろうか?」
と、疑問を投げかけたことはあります。
まれに、テレビや雑誌に出ることもありますが、彼らは、
「もし出たら、両親が喜んでくれるかどうか?」
で決めているそうです。
世間的に有名にならないわけはこういうことです。
そもそも前述の通り、彼らは
「名前を売って、有名になる必要がない」
のです。
他人の目を気にしない
私のような、出来ていない人間だったら、たぶんエベレストに登ってると思うのです。
なぜなら、
「なんだ、あの人最強とか言うけど、エベレスト登ってないじゃん」
と、一般人に言われるのが嫌だからです。
山野井泰史は、そういうことをいっさい気にしません。
誰になんと思われようが、そんなこと関係ないのです。
ただ、自分たちが登りたい山に挑んで、登りたいだけなんです。
ファンの方がヤキモキ
本人たちの気持ちをよそに、私たちファンのほうが、ヤキモキしているかもしれません。
「もっと山野井泰史のことを知って欲しい。こんなクライマーがいることを知って欲しい」
と、情報発信したいのです。
ファンとしては、
メディアに名前を売ることが上手い登山家
が、テレビで偉そうに語っているのを見ると、悔しいんだよなあ。
山野井夫妻は「余計なお世話」と言うのでしょうが・・・。
山野井夫妻をもっと深く知って欲しい
たくさんの映像記録、著書、関係図書から抜粋して、記事を書いてきました。
しかし、私の文章力で、全部伝えられるわけもなく、かえって歯がゆい思いをしています。
ぜひ、もっと彼らのことを、深く知ってください。
ここで興味を持ってくれた人なら、さらに彼らの魅力がわかるでしょう。
ブログ
月に1回未満の更新です。少ない言葉ですが、素朴な言葉に彼の人柄がよくわかります。
彼の近況を知ることが出来る、貴重な場所です。
本・雑誌
まずは、なんといっても、彼の自著です。
彼が登ってきた数々のクライミングから、いくつか選んで彼本人が詳しく書いています。
特に、ギャチュンカンの生還について読んでください。
そして、これを読んだ上で、ギャチュンカンの生還を沢木耕太郎が書いたものと、比べて欲しいと思います。
対比がとてもおもしろいです。
また、山野井泰史・妙子夫妻の、細かな日常生活の様子や考えなど、よく取材されています。
彼が、壁を見ただけで萎縮し、取り付くことなく逃げ帰ったエピソードなどが書かれています。
翌年、再チャレンジして登りましたが。
映像作品
私が知る限り、山野井夫妻のことを観れる映像作品は、このDVDしかありません。
ギャチュンカンの生還から5年、トレーニングを積んで再びクライミングの世界に戻ってきました。
グリーンランドにある名もなき岩壁に、夫婦で挑みます。
山野井泰史のクライミングが観れる、唯一の作品です。